緊急企画

『Flappy Birdに夢中になる不思議ちゃんたち。』


確か今年2014年に入って2月頃だったか、
スマホのアプリで超人気だったゲームを作者自らが削除したのが話題、というニュースを目にした。
そのゲームをインストール済みの本体をeBayで売ったところ500ドルの値が付いたという噂も小耳に挟んだ。
だがその時は、「好きなゲームを手に入れるのに幾ら出そうが、その人が納得してるなら、
その人の勝手じゃないか」程度にしか思わなかったし、筆者はレトロゲーム専門サイトの管理人として
「自分の範囲じゃねーし関係ねーか」ってな感じで、それ以上調べることも無かったのだった。

しかし突然として、ココを書きたくなった日が訪れることとなったのである。(笑)

ことの発端は何気なくaminet.netを開いたことだった。
「おお、2014年の(020でも動く)Amiga新作ゲーム来てるわ!」って感じでソレをダウンロードしたのだ。

ゲームは2014年3月6日からaminetよりダウンロード可能。
「今最も話題のモバイルゲームをAmigaに移植」とある。
筆者は何となくタイトル名は覚えていたので
すぐに「ああ、アレのことか。」と思った。
(この時点でゲーム内容は知らなかった。)

今回Amigaに移植したのは、“Michael GIBS” さん,
この方は古くからAmigaの著名フォーラム「English Amiga Board」
に参加されていた方で、自身のYoutubeチャンネルでも
色々とAmiga関連の興味深いネタを提供してくれている。
この度も「いい仕事してくれたなぁ」と感謝している。
早速、まずはWinUAE上で動作確認である。

筆者の第一声

「ハァッ?!」

・・・である(笑)。まぁ正確には、タイトル画面直後に自キャラの鳥が地面にドスンと落ちた瞬間のことだ。


移植度は高いらしい。まぁ解像度が違うのと、
操作が「指なのか」・「ボタンなのか」の差くらいか。
このゲームの移植度に「高い」も糞もないか?
Gibs氏のことを言ってるのではなく、
あくまで「原作って こんなゲーム?」って確認したいだけなのだ。

終始右へ強制スクロールしている中、
自キャラを羽ばたかせて地形の合間を縫っていく、
それで間違いないよな?
今一度。
ホントーに、コレで間違いないんだよな?!(笑)

・・・率直な感想として、1990年代初期のAmigaの個人作成フリーウェアの中に入っても
好まれるかというと、とても厳しいものがある。
2014年といえば色んなハード(家庭用ゲーム機・パソコン・携帯含めて)が溢れかえって久しいから
余計に「こんなもんで本当に満足なの?」って感じてしまうのと、
このゲームに対する(おそらく多数派の)「認識」に対しては強い違和感を覚える。

・・・「難しいゲーム」が好きなんなら、紹介したいタイトルを(レトロゲームで)山ほど持ってるんだけど(笑)、
そもそも今の子らって、このようなカスゲーの難度に魅力を感じるのだろうか・・・。
そして中毒性があると感じる理由も分からない。
筆者の場合10回もゲームオーバーになる前にWinUAEを閉じたが、何も悔しくないんだが・・・。
土管と土管の間を4回潜りました、20回潜れました・・・だから何?、としか思わないのでは?

筆者は、いつもならADFをフロッピー現物に落とし込んでレトロゲーム機「CD32」実機で遊ぶ。
それが当サイトのやり方である。 だが今回、フロッピーに落とし込む気にもならないというのが実情。
だがADFは保持しておく。ファイル名を見ただけで
「ああ、コレにハマる人々が世界中にいた時があった」と思い出すために。

・・・筆者だってハノイ在住という原作者様を知らないから本当のところ(彼の真意)は何も分からないが
鵜呑みにできるかというと甚だ疑問。コレに関しては
「出来が悪いので(恥ずかしいし)取り下げます」と作者が言い出しても誰も止めないような内容だから
ネガティブな感情で以って、穿って捉えてしまいたくなる。

スマホ向けに開発された新作ゲームにも良作は色々とあるだろうし、それらが肌に合わないにしても
レトロなゲームをスマホ上で合法的に遊ぶ方法なんかは 調べれば幾らでも出てくるではないか。
例えば当サイトのリンク集からもリンクしている「PD ROMS」(外部リンク)なんかを見ただけでも
アンドロイド向けに様々なエミュレータが個人製作されているのが分かるだろう。
それで動かすことのできるゲームに関しては、個人製作のフリーウェアとか、
かつてコマーシャルリリースされたが現在はフリー宣言済みとかで色々あるはず、これも調べれば出てくる。
少なくとも「Flappy Bird」よりかは作り込まれているだろうから、楽しめるのではないか。
作る側も考えており、「本格的にやる」にしても「暇つぶしにやる」にしても楽しめるように出来てたりするのに驚かされるかも!
趣味人による制作とはいえ結構レベル高かったりするのだ。

筆者は広義で「ゲームを楽しみたい人々」全員、或る意味で同じ趣味の・或る意味仲間だと思っている、
だからこそ今一度問いたいものだ、
「Flappy Birdを求める自分で本当に良いのか」、今一度考えるべきだ。


ドスンッ!!


と落った瞬間に! 目を覚ますべき!


以上をヒントに、もっと色々、ご自分のスマホで調べてみるべし・・・そうすれば、もっとハッピーなゲーム生活が待っている(!)。

・・・そう思った3月某日であった。


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==========2016年2月・後記===========================================================================

筆者が利用しているゲーム関連サイトのMobygamesが2016年1月に発表したタイトル数推移にはショッキングなものがある。
思えば昨年2015年1月時にも同様に発表されたグラフからも、その傾向は現れ始めてはいたが、
2015年の下落は筆者の予想以上に顕著になっていた。(下図、Mobygamesから引用。)


この、バブルが弾け飛んだかにも見える恐ろしきグラフから、何を読み取ることができるだろうか。
流行に左右されにくい、昔から一定のタイトル数を誇っていたWindowsやMac向けゲームまでもが
急激に数を落としているが、その一方で
一時は急速にシェアを奪った筈のスマホ関連も急激にタイトル数が減っている。
一般論として企業が発表するタイトルに関しては、年々クォリティが高くなる(or高いものが自然と要求される)中で
制作費・製作期間がかかるようになっているということなら、昔から言われ続けていることだ。
しかし「安上がりで薄い」が定説だったスマホ向けゲームまでもが激減しているということから、
他にも要因があることは明確だろう。

実は、筆者の感覚として、タイトル数自体は(この数年で)激減している雰囲気には感じられない。
当ページに関連付けた話なのだが、
企業が量販店に卸すタイトル数は激減した一方でインディーズは増えているのではないかと推測しているわけだ。
Amigaやレトロゲーム機だけに限った話でなく、PC/スマホ向けゲームとしても個人が誰でもゲームが作れて配信できる時代。
その個々のゲームタイトルは、作者自身か余程熱心なファンが投稿しない限り、Mobygamesに載ることは無い。
だからグラフだけが現実と乖離した姿となった、そう解釈しているわけである。

インディーズ、といってもピンキリである。
昨年2015年の話題といえば、東証一部の老舗メーカーを退社した某方がkickstarterで大成功を収めた件がある。
商用ならkickstarterまたは類似のサイトを通じて資金を募り、特典を付加して発売する流れがスッカリ定着しているし、
個人サイトを作って事前予約と言う形で資金を募るケースも散見する。
一方で、「趣味レベル」「お金儲けなくていい」「儲けてはいけない二次創作」、こういった作品群は
個人で作って当該コミュニティまたは個人サイトで無料配信というスタイルが取られている。
筆者の場合はコードには全く向いていなくMOD(トータルコンバージョン)しか出せないが(=フリーウェアとしてのリリース)、
好きな世界を作ったり、敵の配置を決めたりマップを構成するといったことは、実際問題なかなかどうして、楽しいものだ。
ゲームを作るのに時間を割くということはゲームを遊ぶ時間は減る。
こうなると、むやみに市販のゲームをフルプライスで購入しなくなるものだ。
自分と同じようにフリーで出しているゲームで興味を持ったタイトルを遊ぶ可能性は高くなるし、
お金出すとしたら「お金出して良かった」と思えるような作品のみを、という気持ちが強くなる。
「これは良い」と思えるkickstarterのプロジェクトにだけ“投資”するという人がいても、ちっとも不思議なことではない。

資金を募って結果が出せる人と、とてもできそうもないのでフリーウェアとして出す人。
能力のある人は企業の内外に捉われず成功及び利益を掴むだろう。
そうでない人も、ゲームを作ること自体の楽しさやフリーで出した後に同じ趣味人と共有したりして精神的な充足が得られる。
近年こうした「二極分化」が進むインディーズの作品群に、企業が付け入る隙はあるだろうか?

少なくとも、「会社の為に、企業の業績を上げる為に私は、売れるゲームを一生懸命考えます!」という時代は
終わった可能性がある。
その先では、たいして能力も無く企業にぶら下がっているような人々はプロフェッショナルの世界から淘汰されることは明らか。
残った人々も、「Flappy Bird」ほど極端ではないにせよ理屈で説明できないような不条理を
これからも目の当たりにするだろう。